ブラックホールが情報を飲み込む?:宇宙最大の謎「情報パラドックス」が問いかけること
はじめに:ブラックホールの奇妙なふるまい
ブラックホールは、宇宙で最も謎に満ちた天体の一つです。その強大な重力は、光さえも脱出できない「事象の地平線」と呼ばれる境界を作り出します。一度この地平線を越えてしまったものは、二度と外の世界に戻ることはできません。これは、古典的な物理学、特にアインシュタインの一般相対性理論が描くブラックホールの姿です。
しかし、ブラックホールの物理を深く探求するにつれて、私たちは驚くべき矛盾に直面します。それは「情報パラドックス」と呼ばれる問題であり、ブラックホールが宇宙の基本的なルールを破っているのではないかという深刻な問いを投げかけます。このパラドックスは、私たちの宇宙に関する理解、特に重力と量子力学という二つの偉大な理論がいかにして調和するのかという根源的な問題に直結しています。
量子力学が語る「情報の保存」原則
情報パラドックスを理解するためには、まず量子力学における重要な原則を知る必要があります。量子力学は、原子や素粒子といった非常に小さな世界の物理法則を記述する理論です。この理論の基本的な考え方の一つに、「情報は失われない」という原則があります。
ここでいう「情報」とは、物質やエネルギーの状態を完全に記述するための全てのデータのことです。例えば、ある粒子がどのような種類で、どこにあり、どのような速度で運動しているか、といった詳細な情報です。量子力学によれば、どのような物理的なプロセス(例えば、粒子の衝突や崩壊)が起きても、その系の初期状態に含まれていた情報の総量は保存されるとされています。これは「ユニタリー性」と呼ばれる性質に基づいています。
例えるならば、燃え尽きた灰や煙から、燃やす前の木や紙の正確な状態(原子一つ一つの配置や動き)を理論的には完全に復元できる、ということです。現実世界では困難ですが、基本的な物理法則は情報を保存していると考えられています。この情報の保存は、物理現象が過去から未来へ、あるいは未来から過去へと完全に決定されるという、科学における根幹的な考え方を支えています。
ホーキングの予言:ブラックホールは蒸発する
長らく、ブラックホールは一度できると何も出てこない、永久に存在し続ける天体だと考えられていました。しかし、1970年代に理論物理学者スティーブン・ホーキング博士が、量子力学と一般相対性理論を組み合わせた考察から、驚くべき予言を発表しました。
ホーキング博士は、ブラックホールの事象の地平線付近で量子効果が働くことを考慮しました。真空だと思われている空間でも、実は非常に短い時間だけ粒子と反粒子がペアで生成・消滅している「真空のゆらぎ」が存在します。ホーキング博士の計算によると、事象の地平線のすぐ外側でこのペアが生成された場合、一方の粒子がブラックホールに吸い込まれ、もう一方の粒子が事象の地平線から脱出することがあり得ます。脱出した粒子は、外から見るとブラックホールから何らかのエネルギーが放出されているように見えます。これを「ホーキング放射」と呼びます。
ホーキング放射は、ブラックホールがエネルギーを失っていくプロセスです。エネルギー保存の法則に従い、エネルギーを放出し続けるブラックホールは、やがて質量を失い、最終的には蒸発して消滅すると予言されました。これは、ブラックホールは永遠ではない、という革命的な考え方でした。
情報パラドックスの誕生:失われた情報はどこへ?
ホーキング放射の発見は、同時に大きな謎を生み出しました。ホーキング放射によってブラックホールから放出される粒子は、外から見ると完全にランダムな熱放射のように見えます。つまり、この放射からは、ブラックホールが「何を」吸い込んだのかについての情報は全く含まれていないように思われたのです。
ここで量子力学の情報の保存原則と矛盾が生じます。
- ブラックホールが何か(例えば、本やコンピュータなど、特定の情報を持つ物体)を吸い込む。 吸い込まれた情報は事象の地平線を越え、外から観測できなくなる。
- ブラックホールはホーキング放射によって蒸発する。 最終的にブラックホールは完全に消滅し、その代わりにランダムな放射が宇宙空間に残る。
- 問題: 量子力学の原則では、初期状態の情報は失われないはずです。しかし、ランダムな放射からは、ブラックホールが吸い込んだ元の物体の詳細な情報(例えば、本のどのページに何が書いてあったか)を復元することはできないように見えます。まるで、ブラックホールが情報を「破壊」してしまったかのようです。
これがブラックホールの情報パラドックスです。「情報は失われない」という量子力学の基本的な原則と、「ブラックホールは情報を破壊するらしい」という(当時の)一般相対性理論とホーキング放射から導かれる帰結が、真っ向から対立してしまったのです。
なぜこれが大きな問題なのか?
情報パラドックスがこれほどまでに物理学者たちを悩ませるのは、それが単なる特殊なケースでの問題ではないからです。これは、宇宙を記述する二つの最も成功した理論、すなわち非常に大きなスケールを扱う一般相対性理論(重力理論)と、非常に小さなスケールを扱う量子力学が、ブラックホールという極限的な状況で決定的に矛盾することを示しているからです。
この矛盾は、私たちの宇宙がどのように機能しているのか、その根源的な仕組みに対する理解がまだ不完全であることを露呈しています。情報が本当にブラックホールで失われるのであれば、量子力学の基本原理が破綻することになります。逆に、情報が保存されるのであれば、ブラックホールの描像やホーキング放射の理解に見直しが必要になります。
情報パラドックスの解決は、重力と量子力学を統一する、より根源的な理論、つまり「量子重力理論」の構築に不可欠であると考えられています。超ひも理論やループ量子重力理論といった、現在研究されている様々な量子重力理論は、この情報パラドックスをどのように説明するかという点が重要な検証ポイントの一つとなっています。
パラドックスへの様々な試み:解決の糸口はどこに?
情報パラドックスに対して、これまで多くの物理学者たちが様々な解決策やアイデアを提案してきました。しかし、決定的な答えはまだ見つかっていません。いくつかの主要なアイデアを紹介しましょう。
- 情報が本当に失われる: 量子力学の原則が、ブラックホールのような極限状況では破綻するという可能性です。これは多くの物理学者にとって受け入れがたいアイデアですが、完全に排除されているわけではありません。
- 情報は保存されている(ブラックホール外部): ホーキング放射には、吸い込まれた情報がエンコードされている(何らかの形で書き込まれている)という考え方です。しかし、それがどのようなメカニズムで起こるのかは非常に難解です。
- 情報は保存されている(ブラックホール内部または地平線付近): 情報がブラックホールの内部に保持されるか、あるいは事象の地平線自体に何らかの形で蓄積されるという考え方です。
- ホログラフィック原理とAdS/CFT対応: ブラックホールの内部の物理現象は、事象の地平線表面(二次元)の物理現象として記述できるという強力な提唱です。これは情報を保存する仕組みを示唆しています。
- ブラックホール相補性: 外から見た観測者と、ブラックホールに落ちていく観測者とでは、物理法則の適用範囲が異なり、彼らの記述は相補的であるという考え方です。これにより、外から見ると情報が地平線で「焼かれて」放射にエンコードされ、落ちていく観測者にとっては情報を携えて特異点に向かう、という矛盾しない二つの記述が可能になるという提唱です。
- ファズボール理論: 事象の地平線は存在せず、ブラックホールは特異点ではなく、ホログラフィック原理で記述されるような「ファズボール(綿毛のようなもの)」であるとする考え方です。このモデルでは情報が地平線を越えて失われるという問題が起きません。
- ファイアウォール: 情報が地平線で「焼き尽くされる」際に、非常に高温の「ファイアウォール」が形成され、地平線を越えようとするものを破壊するという過激な提案もかつてなされました。これは一般相対性理論の重要な原理を破る可能性があるため、議論を呼びました。
- 情報はブラックホールの「残留物」として残る: ブラックホールが完全に蒸発せず、情報を保持した非常に小さな何かが最後に残るという可能性です。
これらのアイデアは、それぞれが非常に高度で難解な物理学に基づいています。現時点では、どれが正しいのか、あるいは全く新しいアプローチが必要なのかは分かっていません。
2019年の進展とホーキング氏の考えの変化
長年、ホーキング博士自身は情報が失われると考えている時期がありましたが、晩年には情報が失われないという立場に傾いていきました。そして2019年、ホーキング博士の死後に出版された最後の論文では、彼の共同研究者たちが、ブラックホールの周りに「柔らかい毛(soft hair)」と呼ばれる非常に低エネルギーの粒子が存在し、これが吸い込まれた粒子に関する情報を保持している可能性があるというアイデアを提唱しました。この「柔らかい毛」は、かつてブラックホールには質量、電荷、角運動量という3つの情報しかなく、「毛がない (no-hair) 定理」に従うと考えられていた常識を覆す可能性を示唆するものです。
この「柔らかい毛」のアイデアも、情報パラドックスを解決するための重要なヒントとなる可能性がありますが、まだ広く受け入れられている結論ではありません。
結び:未解決の宇宙最大の謎へ挑む
ブラックホールの情報パラドックスは、単なる理論的な興味深い問題に留まりません。それは、私たちの宇宙が従うべき基本的な物理法則は何なのか、量子力学と重力はどう統合されるべきなのか、そして宇宙の究極的な運命はどうなるのか、といった根源的な問いに繋がっています。
この謎の解明は、ブラックホールの理解を深めるだけでなく、量子重力理論の完成に不可欠であり、宇宙の始まりであるビッグバンや、宇宙の未来における様々な現象の理解にも光を当てる可能性があります。
情報パラドックスは未解決の謎ですが、世界中の物理学者たちがこの問題に挑み続けています。ブラックホールの奇妙なふるまいの中に隠された情報の秘密が明らかになる日は、宇宙の真理へ一歩近づく日となるでしょう。