謎めく特異点

宇宙最大の謎をつなぐ鍵か?ブラックホールと量子もつれが織りなす深遠な関係

Tags: ブラックホール, 量子もつれ, ホーキング放射, 情報パラドックス, 量子重力

ブラックホールと量子の奇妙な関係

宇宙には、私たちの理解の限界に挑むような、極端な環境が存在します。その最たる例がブラックホールです。ブラックホールは、あまりに強力な重力によって時空すら歪め、一度落ち込んだものは光ですら脱出できないという、一般相対性理論が予言する驚異的な天体です。

一方で、宇宙のミクロな世界を記述する量子力学もまた、私たちの直感に反する奇妙な現象に満ちています。この二つの物理学の柱である一般相対性理論と量子力学は、それぞれの領域で絶大な成功を収めていますが、ブラックホールの内部や誕生初期の宇宙といった極限状況においては、互いに矛盾を抱えてしまいます。

特に、ブラックホールを巡る多くの未解決の謎には、量子力学的な現象が深く関わっていると考えられています。その中でも、特に奇妙で、しかし宇宙の根幹に関わる可能性を秘めているのが「量子もつれ(quantum entanglement)」という現象です。この量子もつれが、ブラックホールの謎を解き明かす鍵となるのではないか、と多くの物理学者は考えています。

量子もつれとは何か?

量子もつれとは、二つ以上の量子が、たとえどれほど遠く離れていても、まるでテレパシーで繋がっているかのように、互いの状態が瞬時に影響し合う現象です。アインシュタインはこの現象を「不気味な遠隔作用(spooky action at a distance)」と呼び、量子力学の完全性を疑う根拠の一つとしました。

具体的には、もつれたペア粒子の一方の性質(例えばスピンや偏光など)を観測して決定すると、もう一方の粒子の性質も、どれだけ離れていても瞬時に決定されます。この相関性は、古典的な物理学では考えられないものです。

例えば、二つのコインがもつれていると想像してみてください。片方のコインを投げ、それが表だと分かった瞬間、もう片方のコインは(たとえ地球の裏側にあっても)必ず裏になっている、というようなものです。これは、単に互いに逆の結果が出るようにセットされただけでなく、観測するまでどちらになるか決まっていない状態(重ね合わせの状態)で結びついており、一方の観測が他方の状態を決定するという、より深い結びつきを意味します。

ブラックホールと量子もつれが交わる場所:ホーキング放射

量子もつれがブラックホールとどのように関わるのでしょうか?その接点の一つが、有名なホーキング放射です。

理論物理学者のスティーブン・ホーキング博士は、ブラックホールが完全に「真っ黒」ではなく、非常に微弱な熱放射を放出し、やがて蒸発しうることを予言しました。このホーキング放射のメカニズムを理解するために、量子力学的な効果を考慮する必要があります。

真空の宇宙空間は、実は何もないわけではありません。量子力学によれば、真空では常に粒子と反粒子のペアが生成と消滅を繰り返しています。これを「真空のゆらぎ」と呼びます。通常、これらのペアはすぐに再結合して消滅するため、観測されることはありません。しかし、ブラックホールの事象の地平線(光すら脱出できなくなる境界線)のすぐ近くでは、この状況が変わります。

事象の地平線のすぐ外側で生成された粒子・反粒子のペアは、もつれた関係にあります。もし、このペアの一方(例えば反粒子)が事象の地平線の内側に落ち込み、もう一方(粒子)が事象の地平線の外側へ脱出できたとしたらどうなるでしょうか?

脱出した粒子は、ブラックホールから放出されたかのように見えます。これがホーキング放射として観測されるエネルギーの流れの源と考えられています。このとき、ブラックホールの外に脱出した粒子と、ブラックホールの中に落ち込んだ粒子は、もともとペアとして生成されたため、量子もつれの状態にあるのです。

情報パラドックスと量子もつれの苦悩

さて、ここに大きな問題が生じます。ブラックホールは蒸発するにつれて小さくなり、最終的には消滅すると考えられています。しかし、その中に落ち込んだ物質や粒子の情報は、どうなるのでしょうか?

ブラックホールの外に脱出したホーキング放射は、内部の情報とは無関係な、ランダムな熱放射であるとホーキング博士は当初考えました。もしそうだとすると、ブラックホールが蒸発して消滅したとき、中に落ち込んだすべての情報(もつれた粒子の片割れが持っていた情報を含む)は宇宙から永久に失われてしまうことになります。

しかし、量子力学の最も基本的な原理の一つに「情報は失われない(ユニタリ性)」というものがあります。これは、ある時点での宇宙の状態が分かれば、原理的には過去や未来のすべての状態を完全に計算できる、という強力な原則です。ブラックホールが情報を破壊するのだとすれば、この量子力学の基本原理が破られてしまいます。これが「情報パラドックス」と呼ばれる、ブラックホール物理学最大の未解決の謎の一つです。

そして、この情報パラドックスは、先ほどの量子もつれの話と深く結びついています。ホーキング放射によって外に出た粒子は、ブラックホールの内側に落ちた粒子ともつれています。もし内側の粒子がブラックホールの消滅と共に失われてしまうと、外側の粒子のもつれが一方的に断ち切られてしまうことになります。

量子もつれには「モノガミー(一夫一婦制)」と呼ばれる性質があり、ある粒子が他の粒子ともつれることができる度合いには限界があります。もし、蒸発するブラックホールの外で、以前に放出されたホーキング放射の粒子たちが、新しく放出される粒子ともつれようとするならば、それは内側に落ちた粒子とのもつれと矛盾する可能性があります。外側の粒子は、内側の粒子ともつれたままでいなければならないのに、同時に外の他の粒子ともつれようとする状況が生まれてしまうのです。これは量子力学の整合性を揺るがす問題です。

量子もつれが示す可能性:情報回復と時空の構造

この困難な状況を乗り越えるために、様々な理論的な試みがなされています。その多くが、ブラックホールの物理と量子もつれの性質を深く掘り下げようとしています。

一つの可能性は、実はブラックホールは情報を完全に保持しており、ホーキング放射の中に何らかの形で情報がエンコードされて外に出てくるという考え方です。この場合、外に出てくる粒子は、落ち込んだ粒子の情報を持ったまま、内側の粒子ともつれ続けるか、あるいは別の形で情報を「回復」させるメカニズムがあることになります。しかし、これがどのように起こるのかは、まだ明らかになっていません。ブラックホールの内部構造が、従来の理解とは全く異なる「ファズボール」や「グラバスター」のようなものである必要性を示唆する理論もあります。

別の考え方は、事象の地平線そのものに注目するものです。もし、事象の地平線で量子もつれが急激に断ち切られると、そこに膨大なエネルギーの壁ができるのではないか、という「ファイアウォール問題」も提起されています。これは、ブラックホールに落ち込もうとする物体が、事象の地平線で燃え尽きてしまう可能性を示唆しており、アインシュタインの一般相対性理論が描く滑らかな時空の姿と矛盾するように見えます。

さらに、量子もつれと時空の幾何学的な構造との間には、予想以上に深い関連があることが最近の研究で示唆されています。例えば、「ER=EPR」という仮説では、量子もつれ(EPR相関)は、アインシュタイン=ローゼン橋(ER橋)、つまりワームホールのような時空のトンネルと等価である可能性が論じられています。もしこれが正しければ、ブラックホールの内部ともつれた外部の粒子との間は、時空的なつながり、すなわちワームホールによって結ばれているのかもしれません。これは、ブラックホールの内部が別の宇宙に通じている可能性や、ブラックホールが時空そのものの複雑な量子的な構造を反映している可能性を示唆しており、非常に驚くべき考え方です。

未解決の謎の先に

ブラックホールと量子もつれの関係は、現代物理学の最も深い謎の一つに触れています。量子もつれというミクロな現象が、ブラックホールの蒸発や情報喪失といったマクロな宇宙論的疑問に深く関わっていることは、宇宙が私たちの想像以上に統合された、そして奇妙なルールに支配されていることを示唆しています。

情報パラドックスの解決、事象の地平線の真の姿、そしてブラックホール内部の物理を理解するためには、一般相対性理論と量子力学を統一する「量子重力理論」の完成が不可欠です。ループ量子重力理論や超弦理論といった様々な候補がありますが、まだ決定的な理論は確立されていません。

ブラックホールの周りで起こる奇妙な量子現象を巡る議論は、宇宙の根幹にある時空、情報、そして重力の性質について、私たちに再考を迫っています。量子もつれは、単なる量子の奇妙な性質ではなく、ブラックホールの謎を解き明かし、宇宙の究極的な姿を理解するための、重要な手がかりなのかもしれません。今後の理論研究や、重力波観測などの新しい観測手法によって、この深遠な関係がどこまで解明されていくのか、期待が寄せられています。