謎めく特異点

「回転」がブラックホールにもたらす深遠な謎:エルゴ球とペンローズ過程

Tags: ブラックホール, 回転ブラックホール, エルゴ球, ペンローズ過程, 一般相対性理論, 宇宙物理学, 謎

ブラックホールの「回転」が隠す、もう一つの謎

ブラックホールと聞くと、あらゆるものを吸い込む重力源としてイメージされることが多いでしょう。そして、その内部には宇宙のあらゆる法則が破綻する「特異点」が存在すると考えられています。シュワルツシルト解に代表される静的なブラックホールは、その性質が比較的単純であり、質量のみで記述されるという「無毛定理」の一側面を示しています。

しかし、宇宙に存在する多くの天体は回転しています。ブラックホールも例外ではありません。恒星が崩壊してブラックホールになる場合、元々の恒星の回転や周囲の物質の降着によって、ブラックホールは角運動量を持つ、つまり回転するようになります。この「回転」という要素が加わるだけで、ブラックホールを取り巻く時空は劇的に変化し、静的なブラックホールとは全く異なる、興味深い現象や、さらなる深遠な謎が現れるのです。

カー解が示す回転ブラックホールの世界

一般相対性理論において、質量と角運動量(回転の度合い)を持つブラックホールは、「カー解」と呼ばれる解によって記述されます。これは1963年にロイ・カーによって発見されたアインシュタイン方程式の厳密解であり、静的なシュワルツシルト解よりも現実のブラックホールに近いモデルと考えられています。

カー解のブラックホールは、質量と角運動量の二つのパラメータだけで完全に記述されることが、無毛定理のより一般的な形として知られています。しかし、その内部構造や周囲の時空は、シュワルツシルト解に比べてはるかに複雑です。特に注目すべきは、回転するブラックホールに特有の「エルゴ球」と呼ばれる領域の存在です。

時空が引きずられる「エルゴ球」の不思議

回転するブラックホールの周囲では、「フレーム・ドラッギング(引きずり込み効果)」と呼ばれる現象が起こります。これは、ブラックホールの強い重力と回転によって、周囲の時空そのものがブラックホールの回転方向に引きずられる効果です。

事象の地平線の外側にあるにも関わらず、このフレーム・ドラッギングが特に顕著になる領域が「エルゴ球」です。エルゴ球の最も外側の境界は「静止限界」と呼ばれ、そこでは時空の引きずり込みが非常に強いため、どんなに努力してもその場で静止していることが不可能になります。静止しようとすると、時空ごと回転方向に引きずられてしまうのです。

例えるなら、強力な竜巻の中心付近のように、その流れに逆らって静止することが物理的に不可能になる領域です。エルゴ球の中では、光ですら一方向にしか進めない、という奇妙な状況が発生します。しかし、エルゴ球の内部はまだ事象の地平線の外側にあるため、ここから脱出することは原理的に可能です。

ブラックホールの回転エネルギーを取り出す:ペンローズ過程

このエルゴ球の最も驚くべき性質の一つは、ブラックホールの回転エネルギーをそこから「取り出す」ことができる可能性がある、という理論です。これはロジャー・ペンローズによって提唱された「ペンローズ過程」として知られています。

ペンローズ過程のアイデアは以下の通りです。エルゴ球内に飛び込んだ物体が、二つの粒子に分裂したと仮定します。そのうちの一つの粒子が事象の地平線を超えてブラックホール内部に落ち込み、もう一つの粒子がエルゴ球の外に飛び出すとします。驚くべきことに、適切に運動方向が調整されていれば、事象の地平線に落ち込む粒子は「負のエネルギー」を持つことが一般相対性理論上許容されるのです。

エネルギー保存の観点から考えると、元の物体のエネルギーは、飛び出した粒子のエネルギーと、落ち込んだ粒子のエネルギーの合計になります。落ち込んだ粒子のエネルギーが負であれば、飛び出した粒子のエネルギーは元の物体のエネルギーよりも大きくなることになります。つまり、この過程を通じて、ブラックホールの回転エネルギーを差し引くことで、飛び出した粒子がエネルギーを得るという仕組みです。

このペンローズ過程は、理論的にはブラックホールからエネルギーを取り出す非常に興味深い方法ですが、実際の宇宙でこれがどのように、あるいはどれだけ頻繁に起こっているのかは、まだ多くの謎に包まれています。

実際の宇宙と回転ブラックホールの謎

観測的には、多くの超大質量ブラックホールや恒星質量ブラックホールの周囲で、非常に強力なジェットやX線放射が観測されています。これらの活動性の源泉として、ブラックホールへの物質の降着や、この回転エネルギーを利用したエネルギー抽出(ペンローズ過程や、より効率的とされるブランフォード・スナイダー過程など)が候補に挙げられています。

しかし、実際のブラックホールがどの程度回転しているのか(カー解における角運動量パラメータの値)を正確に測定することは困難です。また、ペンローズ過程のような理論が、観測されるジェットなどの現象をどれだけ説明できるのかも、まだ完全には理解されていません。

さらに、回転ブラックホールの中心にある特異点も謎めいています。シュワルツシルト解の点特異点に対し、カー解の特異点は「環状」になっていると考えられています。そして、カー解の特定の条件下では、事象の地平線が存在せず、この環状特異点が外部から観測可能になる「裸の特異点」が出現する可能性も指摘されています。これは宇宙の因果律を保証する「宇宙検閲仮説」にも関わる、物理学における大きな未解決問題です。

まとめ:回転が解き明かす宇宙の極限

ブラックホールの「回転」という要素は、単にブラックホールの性質を一つ加えるだけでなく、エルゴ球のような奇妙な時空領域を生み出し、そこからエネルギーを取り出す可能性を示唆し、さらには中心特異点の構造や裸の特異点の可能性といった、一般相対性理論の基礎に関わる深遠な謎を提示します。

回転ブラックホールに関するこれらの理論は、超大質量ブラックホールの活動性や、宇宙における極限状態での物理法則を理解する上で不可欠です。今後の観測技術の進展や理論研究によって、回転ブラックホールの謎がさらに解き明かされ、宇宙の姿に対する私たちの理解が大きく塗り替えられることが期待されています。