ブラックホールのスピンはどこから来るのか?:その起源と測定の謎
ブラックホールの「回転」が握る謎
ブラックホールは、宇宙で最も極端な天体の一つであり、その性質は質量、電荷、そしてスピン(回転)のたった三つの物理量によって完全に記述されると考えられています。これは「ブラックホールの無毛定理」として知られる驚くべき原則です。しかし、その中でも特に「スピン」は、ブラックホールの周囲の時空構造や、周囲の物質に与える影響(例えば、活動的な銀河中心からの強力なジェットの生成など)を大きく左右する非常に重要な要素です。
このブラックホールのスピンについて、私たち人類はまだ多くの根本的な謎に直面しています。例えば、ブラックホールはそのスピンをどのようにして獲得するのでしょうか?そして、どのようにしてその大きさを正確に測定するのでしょうか?これらの問いは、ブラックホールそのものの理解だけでなく、宇宙における巨大構造の形成や進化の謎にも深く関わっています。
ブラックホールのスピン:宇宙の「角運動量」
ブラックホールが持つスピンは、その名の通り、ブラックホールが回転していることを意味します。物理学では、これは「角運動量」として表現されます。角運動量は保存される性質を持つため、ブラックホールが形成される過程や、その後にどのように物質を取り込んだり、他の天体と合体したりするかに応じて、そのスピンの値が決まります。
例えば、恒星が一生の最後に自身の重力で潰れてブラックホールになる場合、元の恒星が持っていた回転(角運動量)は、ブラックホールに引き継がれます。また、ブラックホールの周りを回るガスや塵の円盤(降着円盤)から物質が吸い込まれる際にも、その物質が持つ角運動量がブラックホールに伝わり、スピンを増加させることがあります。さらに、二つのブラックホールが合体する際にも、それぞれのスピンや軌道角運動量が合体後のブラックホールのスピンに影響を与えます。
アインシュタインの一般相対性理論によれば、回転するブラックホール(カー・ブラックホールと呼ばれます)の周囲の時空は非常に特殊な振る舞いをします。特に、ブラックホールの回転によって時空が引きずられる「フレーム・ドラッギング」という現象が起こり、事象の地平線の外側にも、いかなる物体もブラックホールの回転と同じ方向に回転せざるを得ない領域「エルゴ球」が生まれます。このように、スピンはブラックホールの物理的な性質を決定するだけでなく、その周囲の時空をも劇的に変える力を持っています。
スピンの起源を巡る謎
ブラックホールのスピンがどのようにして決まるのか、という問いは、ブラックホールの種類や進化の段階によって異なります。
恒星質量ブラックホールは、大質量星の超新星爆発や重力崩壊によって誕生すると考えられています。この場合、親星がどれだけ速く回転していたか、そして崩壊の過程でどれだけ角運動量が失われたり再分配されたりするかが、最終的なブラックホールのスピンを決定します。しかし、超新星爆発の詳細なメカニズムはまだ完全には解明されておらず、恒星の崩壊からブラックホールが形成されるまでの過程でスピンがどのように変化するのか、理論的な予測には不確かさが残っています。
一方、銀河の中心に存在する超大質量ブラックホールは、恒星質量ブラックホールよりもはるかに巨大で、その形成と成長の歴史はより複雑です。これらは主に、周囲のガスを継続的に吸い込む(降着)ことによって成長したり、他のブラックホールや銀河中心部と合体したりすることで質量とスピンを獲得すると考えられています。もし主にガス降着によって成長するのであれば、ガス円盤の回転方向によってスピンは特定の方向に揃い、大きくなる傾向があるでしょう。しかし、ランダムな方向からの合体が多ければ、スピンの方向はバラバラになり、大きさも様々になるかもしれません。現在観測されている超大質量ブラックホールのスピン分布は、これらの成長シナリオとどのように整合するのか、あるいはしないのか、という点が大きな謎となっています。特に、なぜ多くの活動銀河中心に存在する超大質量ブラックホールが高いスピンを持っているように見えるのかは、盛んに議論されているテーマです。
スピンを「見る」ことの難しさ
ブラックホールのスピンは、直接「見る」ことができるものではありません。私たちは、ブラックホールが周囲の物質や時空に与える影響を観測することによって、間接的にそのスピンの大きさを推定します。スピン測定にはいくつかの手法がありますが、それぞれに難しさや限界があります。
最も広く使われている手法の一つに、ブラックホールの周りの降着円盤から放射されるX線を分析する方法があります。ブラックホールに非常に近い領域では、高速で回転する降着円盤の物質から強いX線が放射されます。特に、円盤の内側から放射される特定のエネルギーの鉄の原子からの輝線(広輝線鉄Kα線)は、ブラックホールの強い重力とスピンによって歪められます。この輝線の「形」や「幅」を詳しく調べることで、降着円盤の最も内側の領域がどれだけブラックホールに近いか、つまりブラックホールのスピンがどれだけ大きいかを推定することができます。スピンが大きいほど、降着円盤は事象の地平線のより近くまで安定して存在できるため、より強い重力の影響を受け、輝線の歪みが大きくなるのです。しかし、この方法による測定は、X線スペクトルの解釈や、降着円盤の物理モデルに依存するため、精度には限界があります。
近年、ブラックホールのスピン測定に革新をもたらしているのが、重力波観測です。二つのブラックホールが合体する際に放出される重力波の波形には、合体する前のブラックホールのスピンや、合体後の単一のブラックホールのスピンに関する情報が刻まれています。LIGOやVirgo、KAGRAといった重力波望遠鏡による観測データから、合体ブラックホールの質量だけでなく、スピンについても推定が行われています。この手法はブラックホールの動的な合体過程を直接捉える点で強力ですが、検出される重力波の信号が複雑であること、また合体後のブラックホールの最終スピンを決定する物理が完全に理解されているわけではないことなど、やはり多くの課題が存在します。
観測結果が示す新たな謎
これらの観測手法によって、これまでに数多くのブラックホールのスピンが測定されてきました。恒星質量ブラックホールや超大質量ブラックホールのスピン分布を調べると、興味深い傾向が見られる一方で、多くの未解決の謎が浮かび上がってきます。
例えば、恒星質量ブラックホールのスピン測定結果は、親星の回転や崩壊モデルに関する理論的な予測と完全に一致するわけではありません。また、超大質量ブラックホールのスピン分布についても、単一の単純な成長シナリオだけでは説明できない多様性が見られます。特に、一部の超大質量ブラックホールが非常に高いスピンを持っているのに対し、そうでないものも存在する理由は、その成長の歴史や周囲の環境の違いを反映していると考えられますが、具体的なメカニズムはまだ明らかではありません。
異なる測定手法、例えばX線観測と重力波観測とで得られたスピンの値が、同じ天体ペア(重力波源となった連星ブラックホールのうち、X線でも観測可能なもの)に対して完全に一致するかどうかも、今後の重要な検証点です。測定の精度向上とともに、これらの比較が可能になることで、ブラックホールのスピンに関する理解はさらに深まるでしょう。
今後の展望と知のフロンティア
ブラックホールのスピンの起源と測定に関する研究は、現在も活発に進められています。より感度の高いX線観測衛星や、次世代の重力波望遠鏡(例えば、宇宙空間重力波アンテナLISAなど)が登場すれば、これまで測定が困難だったブラックホールのスピンを高精度で推定できるようになることが期待されます。
これらの観測データは、ブラックホールの成長と進化のシナリオを検証し、スピンが宇宙の巨大構造形成や銀河進化に果たす役割を解明する上で不可欠な情報をもたらすでしょう。また、極限的な重力環境における時空の物理、すなわちアインシュタインの一般相対性理論が、回転するブラックホールの極限環境でどのように振る舞うのかを、観測的に検証する手がかりも与えてくれます。
ブラックホールのスピンは、単なる一つの物理量ではなく、ブラックホールの過去の履歴、周囲の宇宙との相互作用、そして時空そのものの性質を映し出す鏡と言えます。その起源を辿り、その大きさを精密に測定しようとする試みは、宇宙の深淵に隠された多くの謎を解き明かすための、重要なフロンティアなのです。私たちがブラックホールのスピンについて知れば知るほど、宇宙の物語はさらに豊かで、そして謎めいたものになっていくことでしょう。