実験室でブラックホールは作れるのか?マイクロブラックホール生成の可能性
宇宙の片隅にあるブラックホール:その常識を覆す可能性
ブラックホールと聞いて、多くの方が思い浮かべるのは、宇宙の遥か彼方に存在する、太陽の何十倍、あるいは銀河の中心にあるような超巨大な天体ではないでしょうか。確かに、これまでに発見されているブラックホールの多くは、恒星の最期や銀河の進化と深く関わる、途方もない質量の存在です。
しかし、物理学の理論は、それらとは全く異なる種類のブラックホールが存在する可能性を示唆しています。それは、非常に小さな、文字通り「マイクロ」なブラックホールです。そしてさらに驚くべきことに、このマイクロブラックホールが、私たちの地球上にある巨大な実験装置、例えばスイスにある大型ハドロン衝突型加速器(LHC)のような場所で、人工的に作り出せるかもしれない、という理論が存在するのです。
宇宙の深淵の謎であるブラックホールが、まさか「実験室」で作られる可能性があるとは、にわかには信じがたい話かもしれません。しかし、この可能性の追求は、ブラックホールそのものの理解を深めるだけでなく、宇宙の隠された次元構造や、アインシュタインの重力理論と量子力学を結びつける究極の物理法則へと繋がる壮大な試みです。
この記事では、このマイクロブラックホールの生成可能性を巡る理論と、世界の研究者たちがそれをどのように探求しているのか、そしてこの探索が物理学に問いかける深遠な謎について掘り下げていきます。
マイクロブラックホールとは?理論的な背景
ブラックホールのサイズは、その質量によって決まります。質量が大きければ大きいほど、事象の地平線(一度入ると光すら脱出できない境界)の半径(シュヴァルツシルト半径)は大きくなります。例えば、太陽質量のブラックホールのシュヴァルツシルト半径はおよそ3キロメートルです。
この関係を逆に考えると、もし非常に小さなブラックホールが存在するとすれば、それは非常に小さな質量しか持たないことになります。例えば、1グラムの質量のブラックホールのシュヴァルツシルト半径は、原子核よりも遥かに小さい、およそ10^-25メートルという極微の世界です。このような小さなブラックホールを、マイクロブラックホールと呼びます。
しかし、話はここで終わりません。マイクロブラックホールは、巨大なブラックホールとは異なり、ホーキング放射と呼ばれる量子力学的な効果によって、光や粒子を放出して質量を失い、最終的には蒸発して消滅すると考えられています。ホーキング放射の強さはブラックホールのサイズが小さいほど強いため、マイクロブラックホールは生成されたとしても、極めて短い時間で蒸発してしまうと予測されます。その寿命は、質量が小さいほど短くなり、実験で生成されうるような質量のマイクロブラックホールであれば、宇宙年齢より遥かに短い時間で消滅するでしょう。
では、なぜこのようなマイクロブラックホールが、実験室で作れる可能性があると考えられているのでしょうか?
高次元宇宙論が拓くマイクロブラックホール生成の可能性
実験室でブラックホールを生成するという考えは、余剰次元の存在を仮定する最新の宇宙論モデルと深く結びついています。私たちが認識している宇宙は、縦・横・高さという3つの空間次元と、時間の次元からなる4次元時空です。しかし、素粒子物理学や弦理論などでは、私たちの知らない、コンパクトに「巻き上げられた」小さな余剰次元が存在する可能性が議論されています。
この余剰次元が存在する可能性を示唆するモデルの一つに、ADDモデル(Arkani-Hamed, Dimopoulos, Dvaliモデル)があります。このモデルが提唱する驚くべき点は、重力だけが、この余剰次元を含む全ての次元に「漏れ出す」ことができるという考え方です。一方、電磁力や強い力、弱い力といった他の基本的な力は、私たちが知る3次元空間に閉じ込められています。
もし重力が余剰次元に漏れ出すことができるとすると、私たちが3次元空間で感じる重力は、本来の重力の強さよりも弱く観測されていることになります。つまり、本当の重力はもっとずっと強い可能性があるのです。特に、プランクスケールと呼ばれる、重力が他の力と同等かそれ以上に強くなると考えられるエネルギー・長さのスケールが、余剰次元があることによって、従来の理論よりずっと「低い」エネルギーで実現される可能性があるとADDモデルは示唆しています。
この「低い」エネルギーレベルで強い重力が実現されるということは、素粒子を高いエネルギーで衝突させた際に、比較的低いエネルギーでも重力が支配的になり、ブラックホールが形成されやすくなることを意味します。従来の4次元時空の考え方では、ブラックホールを生成するにはプランクエネルギーという途方もないエネルギーが必要で、これはLHCのエネルギーを遥かに超えています。しかし、ADDモデルなどの高次元理論の下では、LHCが達成できるエネルギーでも、マイクロブラックホールが生成される可能性が出てくるのです。
LHCでのマイクロブラックホール探索:宇宙最小の謎への挑戦
大型ハドロン衝突型加速器(LHC)は、陽子と陽子をほぼ光速まで加速し、正面衝突させることで、宇宙が誕生した直後のような超高エネルギー状態を再現し、素粒子の性質や未知の現象を探る世界最大の実験装置です。設計段階から、LHCでマイクロブラックホールが生成される可能性についても真剣に議論され、その探索はLHCの主要な目的の一つとなっています。
もし、LHCの衝突実験でマイクロブラックホールが生成されれば、それはすぐにホーキング放射によって崩壊し、多数の標準模型粒子(クォーク、レプトンなど)が同時に放出される、非常に特徴的なシグナルとして観測されると予測されます。このシグナルは、通常の素粒子反応とは大きく異なるため、検出器で識別することが可能です。
LHCでの実験は現在も続けられていますが、これまでのところ、マイクロブラックホールが生成されたことを示唆する明確な証拠は得られていません。これは一体何を意味するのでしょうか?
見つからないマイクロブラックホール:何が分かっていないのか
LHCでマイクロブラックホールの明確なシグナルが見つかっていないことに対して、いくつかの解釈が考えられます。
- 高次元理論の単純なモデルは正しくない: ADDモデルのように、LHCエネルギーでマイクロブラックホール生成を予測する高次元理論の単純なモデルは、現実の宇宙を正確に記述していないのかもしれません。余剰次元が存在しないか、存在しても重力の振る舞いが異なる可能性があります。
- マイクロブラックホールの生成エネルギーはLHCの能力を超えている: 高次元は存在するものの、マイクロブラックホールを生成するために必要なエネルギーの閾値が、LHCの現在の最大エネルギーよりも高いのかもしれません。より高エネルギーの加速器が必要となる可能性があります。
- マイクロブラックホールは生成されているが見つけ方が間違っている: マイクロブラックホールは生成されているものの、その崩壊の仕方が予測と異なったり、検出器の感度が十分でなかったりして、まだ見つけられていないだけかもしれません。
- 理論が根本的に間違っている: ブラックホール生成の理論や、ホーキング放射による崩壊の予測そのものに、まだ私たちの知らない物理が潜んでいる可能性もゼロではありません。
マイクロブラックホールが見つからないという「負の結果」も、物理学にとっては非常に重要な情報となります。それは、特定の理論モデルを棄却したり、修正したりするための強力な手がかりとなるからです。現在のLHCの実験結果は、少なくとも単純なシナリオに基づくLHCエネルギーでのマイクロブラックホール生成の可能性に強い制限を与えています。
マイクロブラックホール探索の意義と今後の展望
マイクロブラックホールの探索は、単に「小さなブラックホールがあるか?」という問いに答えるだけでなく、物理学の未解決の根源的な謎に迫るための重要な試みです。
もしマイクロブラックホールが発見されれば、それは以下のような驚くべき事実の証拠となる可能性があります。
- 余剰次元の存在: 私たちが認識している3次元空間の他に、隠された余剰次元が存在することを決定的に証明する手がかりとなります。
- 量子重力の片鱗: 重力が極めて短い距離で強くなる現象は、一般相対性理論と量子力学を統合する量子重力理論が予言する世界です。マイクロブラックホールは、この量子重力効果が顕著に現れる現象であり、その観測は究極理論構築のための貴重な情報源となります。
- ブラックホールの微視的な性質: ホーキング放射の詳細な観測は、ブラックホールの情報パラドックスのような未解決の謎に光を当てるかもしれません。
もちろん、LHCでマイクロブラックホールが見つからなかったとしても、それは高次元や量子重力に関する特定の理論モデルに強い制約を与えることになり、今後の理論研究の方向性を定める上で非常に重要です。
マイクロブラックホールの探索は、LHCでのさらなるデータ解析や、将来的に建設される可能性のあるより高エネルギーの加速器によって続けられていくでしょう。宇宙の巨大な謎であるブラックホールが、実は私たちの手元にある実験装置によって、その隠された性質の一端を明らかにする鍵となるかもしれない――この可能性こそが、多くの物理学者を魅了し、挑戦へと駆り立てているのです。
未だ見ぬマイクロブラックホールは、宇宙の次元、重力の本質、そして究極の物理法則へと繋がる、極小ながらも壮大な謎を私たちに問いかけています。その答えは、私たちの知的好奇心を刺激し、宇宙に対する理解を大きく変える発見となるかもしれません。